真珠の真実を知る

このところ、たて続けに真珠のテーマを担当しました。その際に気づいたのですが、日本人にとって身近な存在の真珠について、客観的に書かれている本が少ないのです。それを探すうちに出会ったのが、「真珠の世界史   富と野望の五千年」(中公新書)でした。この本の内容は、真珠が世界史の中で重要な役割を果たしてきたことを検証する優れた論文であると同時に、真珠を巡って繰り広げられてきた人間ドラマを見せてくれています。その中から特に私が興味を持っているアコヤ真珠について調べてみたところ、目からウロコの真実が続出しましたのでご紹介します。

⚫️ 日本とアコヤ真珠の関わり
現在では養殖が当たり前のアコヤ真珠ですが、日本で養殖技術が発明される前の20世紀初頭までの欧米では、天然ものがたいへんな高値で取引されていました。それでは養殖真珠以前の日本に、天然のアコヤ真珠はあったのでしょうか。

「真珠の世界史」によると、東南アジアの周辺海域で発生したアコヤ貝が、縄文時代に黒潮や対馬海流に乗って日本に渡ってきたそう。その当時の黒潮は今より南を流れていたため、九州に到達したと考えられるようです。以前は日本の固有種と考えられていたアコヤ貝ですが、最近の研究で、インドや中国のそれらと同一種であることが解明されています。縄文時代の貝塚では、九州の長崎県と鹿児島県を中心にアコヤ貝が出土。鹿児島湾の草野貝塚からは、日本最古の天然アコヤ真珠が発見されているそうです。

縄文時代以降、3世紀の魏志倭人伝には、倭の国は真珠の産地との記述があり、卑弥呼の後継者が真珠5000個を献上したとの記録が残っています。真珠は日本の最古の輸出品だったのです。
その後も中国との真珠貿易は続き、その中から欧米に渡ったものもあったと考えられています。江戸時代に長崎の大村藩は、アコヤ貝採取を藩の独占事業にして、集めた真珠を売却していたそうです。養殖真珠の歴史しか知らない私は、真珠産業は三重の英虞湾発祥と思っていましたが、それは大きな間違いでした。

⚫️ 養殖の真円アコヤ真珠、真の発明者とは
長い間、私の頭には養殖真珠の発明=御木本幸吉、という図式がありました。しかし「真珠の世界史」を読んだことで、御木本が完成したのは半円真珠だったこと、真円真珠の生みの親は、見瀬辰平であることがわかりました。彼は真円の真珠を作るという意図を持って、それを実現した世界最初の人物。1904年にいち早く真円真珠を完成していたのに、現在では1907年にもう一人の特許出願者西川藤吉がそれぞれ完成した、というのが定説になっているそうです。しかし「真珠の歴史」の著者は、西川が実際に作ったのはいびつな淡水真珠だったことまで調べています。
見瀬が出願した特許の内容は、現在の真珠養殖の基本原理でした。しかし特許局が、それは西川の出願と抵触すると指摘。その通知が届いた直後から、西川の出身校である東大や農商務省関係者が見瀬のもとへ説得に訪れました。本人の手記によると、まだ自分の技術には改良の余地があると考えていた見瀬は、西川が病で死期が迫っていることを知り、東大出の学者の名誉を重んじて、結局特許を西川に譲ることしたそうです。


この件に割り切れない思いを抱くのは、筆者だけではなく、読者も同じと思います。東大や政府の権威を象徴する人々が、こぞって西川に特許をとらせようとした裏には、真珠養殖が外貨獲得のための国策だったことが関係しているように感じますが、それは考えすぎでしょうか。
なお見瀬辰平は、大村湾で絶滅寸前になっていたアコヤ貝を復活させて真珠養殖を始めました。これが現在も継続しています。また大粒真珠の生成に成功し、自分の事業を立ち上げようとしたのですが、出資者に恵まれなかったそうです。たしかに御木本は養殖真珠を世界に売り出すことに成功した、優秀なビジネスマンでした。しかし、勝者の側から語られる歴史に埋もれてしまった、真の発明者の存在に目を向けることも大切です。このことに気づかせてくれた、「真珠の世界史」に感謝しています。

この本は、「古代ギリシアやローマでは、真珠は最高の宝石だった」とのフレーズで始まっています。東洋の限られた地域の海のみに生息し、命をかけて潜らないと手に入らない希少な宝石。ヨーロッパの支配階級が二千年以上に渡って熱望し、価格を高騰させた真珠。その価値観を打ち壊した、日本の養殖真珠ーー極上のドラマに秘められた、真珠の真実の姿に触れてみませんか。

成瀬浩子

WRITER : Hiroko Naruse

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